周りの目に囚われることなく という方法
周りの目を気にする、自意識、こんな感じの生きづらさは大体の人が持っていると思う。場面によってはこれに助けられることもあるから一概に害だとも言えない。
しかし、これが余りにも大き過ぎて常に自分の足を引っ張っているような人はこれを軽減する方向に向かう必要を感じている。がとても難しい。
この種の生きづらさを感じない場面では途端に調子が良くなって、という人もいる。
何をする上でもこの感覚が大きい人は楽しさや成長の機会が減り続けるというデバフ。
『周りの目を気にするな』という、なんかよくわからんインフルエンサーのスローガンを掲げたところで糞の役にも立たなかったという人は多いことであろう。
実際自分がどれだけ周りの目を気にするかということに関しては、心がけやら、気の持ちようやら、で変わらないものだと思っている。
やってできたという人は、実際に実行するのに足りるだけの素質を持ち合わせているに過ぎないということなんじゃないかという。
生まれ持った気質とか幼少期の経験とか、そんなもんだと思う。それを変えるというのは多分無理。
では持ち合わせていない我々はどうすれば良いのかというと、
自分にとって、
『周りの目が気になる』ということが矮小な、些細な問題に感じるという程の
適切な、プレッシャーや課題や仕事を設定することだ。
例えば(極端な例すぎるけどわかりやすく)
先日フルトンにTKO勝利した井上直也は試合前直前の入場のタイミングなどでは、他人からどう見られようがどんなことを言われようが全く影響を受けないだろう。
それよりもフルトンを倒すという目的とプレッシャーが比べてはるかに大きいから。
実際、他人の目を気にしないで何かに全力で取り組むという姿勢は、他人の目から見ても恥ずかしく見えるようなことでもないし、気にしながら怯えながらよりも結果的によく見えるものだと思う。
そんなことよりも〜しなくては、という方向に向かうことができるに足りるだけの適切な設定が必要ではあるが、まだ『気にしないようにする!』の一点張りよりはマシだと思うし、改善の余地が限りなく残されている分、試す価値があるのではとおもた。
そのままでいいってコト!?
やったぜ!
取り組み続ける意義。
毎週日曜日に月から土曜日までにやっていたことを反省する時間と来週以降に改善するための時間を設けることにするl。
毎週行う意義は、短期間での解決が不可能だったり、社会に出てからでは取り組むのがしんどそうな問題(能力的、年齢的、恒常的)に大学生活中に気がついて対処することと、気がつくような大学生活を送れているのかを客観的に観察するための機会を毎週設けることにある。こうすることで、何となく時間ばかりが過ぎてしまうということがなくなる。
さらには抱える問題ばかりではなく、自分の優れている部分を見つけて伸ばす機会にもなる。
大学生活はそういったことができる最後の期間なのだから、無駄にするわけにはいかない。何となく過ごす四年と大きな差が生まれるのは簡単に想像がつく。目に見てわかるまでの明確な差がついているだろう。
高校までは周りの環境と人が図らずともそういった差を作っていて、18年間の総決算は大きく、目に見えてわかるレベルにまで差がついている。自分の劣等感の原因の一つでもある。大学生活は清算の機会としても考えることができる。
やること
1週間のダイジェストをブログに記録
チェックシートを埋める
小階段の点検、再設定、新設など
反省するための時間
社会人基礎力の観点から自分の行動を評価していく。
某就活支援者が専用のチェックシートを公開していたので、それを使用する。
改善するための時間
大きな問題や能力的な問題に気がついたなら、新しい小階段を計画してコツコツと時間をかけての方向で設定をする。
意識すれば来週からでも改善ができそうなものは、忘れないようにこのブログにでも記録しておけばよい。
更新と毎週行うこと。反省、改善。
基本的に毎週日曜日
やること
1週間のダイジェストをブログに記録
チェックシートを埋める (スプレッドシート)
小階段の点検、再設定、新設など (バインダー)
- 反省するための時間
社会人基礎力の観点から自分の行動を評価していく。
某就活支援者が専用のチェックシートを公開していたので、それを使用する。
- 改善するための時間
大きな問題や能力的な問題に気がついたなら、新しい小階段を計画してコツコツと時間をかけての方向で設定をする。
意識すれば来週からでも改善ができそうなものは、忘れないようにこのブログにでも記録しておけばよい。
再開 大学受験後
あらかたの予想どうり、大学受験には失敗に終わった。
予想どうりではあったが、いざ失敗するまでは心の何処かで自分に期待している部分もあった。
これでようやく自分は劣ってななんかいない、何でもできるという感覚が、自己防衛由来のものなのだという頭では理解していた部分に追いつけた気がする。
自分は特別な存在ではないのだ。ご都合的なシナリオで問題が解決したり、他人より並外れて優れていたりということはあり得ない。こういう感じで認め始めてきた。自己愛性を認識してから長かったが、ついに健常ラインに戻って来れている気がする。
ところで大学生活、こういった現実的な認識を持って満足に過ごせればいいと思うのだが、受験が終わった3月12日から心から集中できるものが見つかっていない。
どこか冷めている。
大学生活、辛抱して歩き回って打ち込むことを決めたい。
打ち込むことのあるなしにかかわらず、やることは変わらない。
小さな階段を登り続けて虐げられないように、十分な強さを獲得する。
メタ認知、結果の視点。
人間の機能的な思考は、今の社会とかみ合っていないと思う
不用意に他者を否定的に見るのは危険だ
人の状態というのは移り変わりのするものだから、
否定的に見ることが正しいような人物がいたとしても、
軽はずみに否定、批判、してはいけない
目を瞑ったり、見えていないことにしてやり過ごすのが
自分にとって一番良い結果となる。
優れていることに否定的になれば、自分が優れるための道が閉ざされる。優れたとしても、優れているのに自分を肯定できない。
劣っていることに否定的になれば、自分が転落した時に他人の目が怖くなる。
間違っている、不公平だ、おかしい、調子にのるな、なんであいつが、
〜でなくて良かった、〜になったら終わりだ、〜はかわいそうだ
こういう言葉が私は大好きだが、毒があるので使うのはよしたい。